作品
経歴
論文
Yo Ota 実験映画作家:太田 曜
作品|INCORRECT CONTINUITY

■ INCORRECT CONTINUITY
1999年/カラー/サウンド/9分
サウンド:山崎 修
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 この作品“ INCORRECT CONTINUITY ”では、撮影時のコマ速を変化させることによって生じる映写時の画面上の“動きの変化”が制作の出発点になっている。コマ速の変化をフィルム画面の全体、あるいは一部に行なうことでスクリーン上に“非現実的な動き”を生じさせるのが作品の基本的構造だ。作品制作の背景には、映画がスクリーン上に作り出す“現実”のような、あるいは“非現実”な“動き”を見る者が感じるのは何故かという問いがある。

 映画では、通常1秒間に24コマの撮影がされ、1秒間に24コマの映写がなされる時、撮影されるものを見ているのと同じように“動き”が再現されると言われる。一般的にはこれを“ノーマルスピード”などと呼ぶようだ。特に16ミリ以上のフォーマットでは、24コマ/秒での撮影、映写がいわゆる“トーキースピード”となっている。因みに、“動き”を再現するために最低限必要なコマ速は16コマ/秒であると言われている。映画の誕生からトーキーの発明に至るまではこのコマ速が使われたが、トーキーの発明で主に音質を上げるために50パーセント増加の24コマ/秒となった。

 映画を誕生させることになるエネルギーのうち最も重要なものの一つは、“動き”を“記録、再現”するということだった。それは、ひとコマずつ分けられた画像が連続的に1秒間に16回撮影された帯状のフィルムを、ひとコマずつ間欠的、連続的にスクリーン上へ投影することで可能になった。このようにしてスクリーン上に作られた“見かけの動き”は、現実に見ている“動き”と同じものではない。もっとも、映画を誕生させたエネルギーの重要な部分が“動きの記録再現”であったこともあり、スクリーン上の“見かけの動き”は“記録”された“現実の動き”が“再現”されているものだと普通は考えられている。あるいは、映画を見る行為は既に、スクリーン上で展開している有色の光の明滅と反射は“現実の動きが記録再現されたものだ”という前提を受け入れる、という姿勢を含んでいるのかもしれない。

 映画を見るという行為に含まれる、“現実の動きが記録再現されたものだ”という前提を受け入れる、という姿勢は、スクリーン上に“現実ではない動き”が現われた時には、認識にどのような変化を及ぼすのだろうか?

 撮影時のコマ速が再生時のコマ速24コマ/秒を上回るとき、スクリーン上の“動き”は“現実の動き”より遅くなる。例えば48コマ/秒での撮影なら、“現実の動き”がスクリーン上では2倍の時間で再現される。通常これは2倍速と呼ばれる。カメラの機構的問題を無視すれば、撮影時のコマ速を上げるとスクリーン上の“再現された動き”は“現実の動き”に比例して遅くなると一般には言われている。

 一方、撮影時のコマ速を、24コマ/秒より少なくすれば、スクリーン上で“再現される動き”は“現実の動き”より速くなる。例えば12コマ/秒で撮影された“動き”は2倍の速さで再現される。しかし、これは単に速い動きになるということではない。いわゆる、“現実の動きの記録再現”に対してコマ数が足りないので、非現実的な動きになる。普通、撮影時のコマ速を23コマ/秒から2コマ/秒程度にすることを“コマ落とし”などと呼んでいる。それより更に少ないコマ速は、実際には1コマずつの撮影間隔を空けることで行なう。映画カメラの構造が、ひとコマずつ撮影するようになっている以上、0.5コマ/秒といったコマ速を行なうことは出来ない。0.5コマ/秒ではなく、1コマ/2秒で撮影することで“現実の動き”を再生時に“速い見かけの動き”にしている。こうした撮影方法は通常“コマ撮り”などと呼ばれている。

 映画のカメラと映写機のコマ送りの構造は、それが発明された1895年から今日まで基本的に変化していない。撮影時も再生時も、ひとコマずつゲートに画面を静止させて、そこに光を当てるというものである。一度にふたコマ以上ずつ撮影したり映写したりという機構は作られなかった。その意味では、1コマずつの撮影時の間隔を大幅に空けるのだけが特にコマ撮りと言うわけではなく、全ての撮影はコマ撮りで行なわれている。問題は、撮影されるひとコマとひとコマの間の間隔の時間だけである。シャッターの構造にもよるが、一般的な回転ミラーシャッター付きのカメラでシャッター開角度が180度の場合、24コマ/秒撮影では、ひとコマ毎の撮影されていない(この間にフィルムが送られている)間の時間は48分の1秒だ。48分の1秒撮影され、48分の1秒がフィルム送りに使われる。通常の連続撮影(ふつう2コマ/秒程度以上の場合)では撮影とフィルム送りが規則的に繰り返される。一方、1コマ/秒程度より撮影と撮影の間隔が長い時には、その間の時間を任意に選択することも可能になる。そして、ふつうはこの1コマ/秒程度より、撮影していない(この間にフィルムが送られる)間の時間が長いものをとりわけ“コマ撮り”などと呼んでいる。こうした撮影していない間の時間を長く出来る機構が付いたモーターは、通常の連続撮影に使用するものとは異なっている。このようなモーターは普通撮影していない間の時間を任意に決められるような構造になっており、一般にコマ撮りモーターなどと呼ばれている。何故このようなモーターのことを、特別にコマ撮りモーターと言うのかは定かではないが、おそらくアニメーションなど、特殊な撮影に主として使われるために、このように呼ばれるようになったのだろう。

 アニメーションと“映画”は現実の動きを記録再生するものと、非現実の動きを作り出すこととの違いから分けて考えられていたりする。しかし、二次元のスクリーンの上で展開するのが光の明滅、あるいは何らかの形態をともなった、あるいは全く抽象的であれ、いずれそうしたものであるのなら、これらは映写の場面では基本的に同じものだ。どちらも、スクリーン上では光の反射にすぎない。撮影の時点で対象が動いていたかどうかに差があるように思うが、これも、フィルム上のことで考えればやはり差はない。フィルムの上にはどちらも静止した画像があるだけだ。“映画”の“動き”は動いていないフィルム上の画像を連続的、間欠的に、スクリーンの上に投影することで作られる。そこでは何がどのように撮影されたかは問題にならない。

 この作品“ INCORRECT CONTINUITY ”が問題にするのは、このような“映画”が作り出す“動き”だ。ここで“映画”というのはフィルムが一コマずつ停止して映写機のゲートを送られる時、ランプで光が当てられレンズを通してスクリーン上に投影される“光と影の明滅”のことをさしている。勿論“映画”はそのことだけに還元出来ない多くの側面を持っている。“ INCORRECT CONTINUITY ”で行なった一種の還元、“映画”を“動き”の問題に限定することの目的は、それだけに還元出来ない多くの側面で“映画”が成り立っていることを浮かび上がらせたいということでもあった。その側面のひとつは“映画”が現実の空間や動きを“記録再現”すると思われているのではないか、と言うものだった。特に、現実の空間や動きを撮影することで作られた映画の場合は、画面に現実の空間や動きの“再現”を見るのではないか、と言うのが“ INCORRECT CONTINUITY ”制作の根拠の一つになっている。

この作品は、基本的に次の(1)〜(5)の5つのシークエンスで構成されている。
(1)山並みと空と雲のロングショット
(2)近景に川、遠景に山と雲
(3)近景に道路とそこを走る車、遠景に橋とそこを走る車等
(4)近景に自動車教習所とそこを走る車、遠景に橋とそこを走る車
(5)画面中央に縦にセンターラインがフレーミングされた道路、その左右を上下に走る車

 (1)〜(5)の5つのシークエンスは、基本的に各々同じ場所で撮影されている。(1)は群馬県伊香保近郊、(2)(3)(4)は群馬県前橋市、(5)は東京の環状八号線で撮影された。各々の撮影場所は作品を制作するに於いて、その内容に係わる重要な意味を持つものとして選ばれたわけではない。それらは、作品のコンセプトを実現するに当り、主として撮影の利便性などによって選ばれている。つまり、そこに写っているのは、特定の場所の、特定の時刻の風景ではあるが、そのことに大きな意味はない。撮影された場所や時刻が、作品のコンセプトを反映するために重要な役割を果たしているわけではない。これらの場所や時刻は、作品の趣旨が反映される限り他のものと入れ替えることが可能である。

 この作品では、各々のシークエンスで異なった時間的操作が行なわれている。それらの操作で『映画』の画面、とりわけ撮影されたカットの中での、時間的連続性について一定の問題提起がなされている。各々のシークエンスで行なわれている時間的操作は主として次のようなものである。

 (1)の“山並みと空と雲のロングショット”では、フィルムの時間軸方向での撮影コマ速の変化。基本的にワンカットで構成されているこのシークエンスでは、見え方として、“連続”と“停止”が交互に現われる。

 具体的にこのカットで行なわれたのは、撮影時に6コマ/秒から1コマ/30秒程度まで、撮影する1コマ1コマの間隔を変化させることだった。6コマ/秒の時には、1コマにつき約12分の1秒間撮影がされ、約12分の1秒間の間シャッターが閉じ、その間にフィルムが1コマ分送られ、再び約12分の1秒間撮影が次のコマに対して行なわれる、という作業が連続して規則的になされた。1コマ/30秒では、1コマ撮影されてから次のコマが撮影されるまでの間が30秒間ということだ。1コマを撮影する際のシャッタースピードはカメラや使用するモーターに依存するが、この場合は約12分の1秒だった。つまり、6コマ/秒も1コマ/30秒もその中間の値でも、1コマ当りのシャッタースピードは同じ長さの時間だった。

 このシークエンスでは主として流れる雲の動きが、時間経過を表すための表象となっている。元来雲の流れる動きはそれほど速いわけではない。そのために、1コマ/30秒と6コマ/秒のコマ速が交互に現われると、1コマ/30秒の方は雲が流れて動いて見え、6コマ/秒の方は動きが止まっているように見える。このシークエンスでは、基本的に同じ連続性の中で撮影時のコマとコマの間の間隔が変化している。これが、画面上では見え方として連続と停止となって現われている。

 (2)の“近景に川、遠景に山と雲”では、近景の川が連続した見え方になるように撮影されているのに対し、遠景の山と雲では見え方として“連続”と“停止”が交互に現われる。このシークエンスは、画面の上半分と下半分とで常に異なった時間経過が現われる。画面下半分では川の流れがずっと6コマ/秒で撮影されている。一方画面の上半分では6コマ/秒と約1コマ/10〜15秒とが、交互に連続するワンカットの中で現われる。この画面上半分は(1)とほぼ似た見え方となっている。しかし、画面全体としては、上半分で連続と停止が交互に現われ、下半分は常に連続した画面となっている。

 (3)の“近景に道路とそこを走る車、遠景に橋とそこを走る車など”では、画面下半分の近景と、画面上半分の遠景とで、それぞれ異なった時間経過が現われる。そうした時間経過の差異は、それぞれ走る車や歩く人、自転車等の動きの違いとして認識される。

 画面上半分と下半分とで使っているコマ速は、各々48コマ/秒〜1コマ/20秒程度だった。ここでは近景の道路を、車が猛烈な速度、あるいは普通の速度、あるいは普通より遅い速度で通りすぎる。遠景の橋の上では近景同様、車や人、自転車が、様々な速度で通りすぎていく。時によっては画面の上半分と下半分とで同じコマ速の部分もある。その際も24コマ/秒の場合もあれば、それ以外のこともある。24コマ/秒の時はいわゆるノーマルスピードでの撮影再生となる。

 (4)の“近景に自動車教習所とそこを走る車、遠景に橋とそこを走る車”もシークエンス(3)同様画面上半分と画面下半分とでそれぞれ異なった時間経過が現われる。ここでも時間経過の差異は、主として走る車の動きの違いとして認識される。

 このシークエンスでも(3)同様、画面上半分、下半分共に48コマ/秒〜1コマ/20秒程度のコマ速で撮影された。この場面は(3)と、撮影されている場所やものは異なっているが、画面の基本的構成と表現上の見え方はほとんど同じである。遠景の橋、画面の上半分と、近景の自動車教習所、画面の下半分で各々走っている車の速さが、あるいは速く、あるいは遅く、あるいは普通に見える。

 (5)の“画面中央に縦にセンターラインがフレーミングされた道路、その左右を上下に走る車”では、(3)(4)とは異なり画面の左右でそれぞれ異なった時間経過が現われる。画面中央を縦に走るセンターラインを境に、右側車線と左側車線とで走っている車の動きが異なっている。このシークエンスでは、画面右左で48コマ/秒〜1コマ/15秒程度のコマ速で撮影されている。走っている車が、あるいは速い、あるいは遅い、あるいは普通の動きに見える。

 我々は“映画”を見る時つねにそこに写されているものの意味を読み取ろうとスクリーン上の光の明滅を観察する。そこに、良く知っているものが“再現”されていれば、実際に見知っているものが写っていると考えるのが普通ではないだろうか。“映画”が“動き”を含めて“現実を記録再現”するものだとの前提を受け入れてスクリーンを見つめているからこうした思い込みが発生するのではないか、というのがこの作品の前提となっている。こうした“映画”を見るという行為に含まれる“姿勢”は、ふだん“映画”を見る際に顧みられることすら少ない。しかし、ものを見るというのは能動的な行為である。“知覚は刺激に対する反応ではなくて、情報抽出という行為である。情報が存在するとき、知覚は生じるかもしれないし、生じないかもしれない。知覚的意識は、感覚的意識とは違い、見つけ出されるような刺激閾はない。それは知覚する人の年齢に依存しており、どのくらいうまく知覚することを学習しているか、どのくらい強く知覚することに動機づけられているかによる。”(J.J.ギブソン 生態学的視覚論)

 “映画”の画面を見るという行為は、現実の空間を見ることと同じではない。“映画”のスクリーン上の画面に、カメラで撮影された空間や運動が再現されているのを見るとき、そのカメラの前にあったであろう空間を見ているように思えるためには、それが“映画”であるということを知っていなければならない。もちろん、身の回りに映像が氾濫する今日そうしたことはもはやいちいち顧みられるようなことではない。前提は意識されることも無いぐらいもの心付いた人の頭に染み込んでいる。意識されないぐらい当り前になっているので、そのことが問題にされるとあるいは違和感を持たれるかもしれない。そこで持たれるかもしれない違和感こそがこの作品“ INCORRECT CONTINUITY ”のコンセプトとなっている。いわく、この“映画”は“動き”に関して“誤った連続”によって作られていると。


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